薬師寺は7世紀末、飛鳥(奈良県橿原市城殿(きどの)町)の地に創建され、平城遷都後の8世紀初めに現在地に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺、北緯34度29分33.88秒東経135度48分0.95秒)の伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。 創建夜行バス 『日本書紀』によれば、天武天皇9年(680年)、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願し、飛鳥の地に創建したのが薬師寺であるとされる。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔さつ銘」(「さつ」は木扁に「察」)にも同趣旨の記述がある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(むしゃだいえ)という行事が行われたことが『書紀』に見え、この頃までにはある程度伽藍が整っていたものと思われる。『続日本紀』によれば、文武天皇2年(698年)には寺の造営がほぼ完成し、僧を住まわせている。この、飛鳥の薬師寺跡は大和三山の畝傍山と香久山の中間にあたる橿原市城殿町に残り、「本薬師寺(もとやくしじ)跡」として特別史跡に指定されている。 平城移転 その後、和銅3年(710年)の平城京への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京の六条大路に面した現在地に移転した。移転の時期は長和4年(1015年)成立の『薬師寺縁起』が伝えるところによれば養老2年(718年)のことであった。『扶桑略記』天平2年(730年)3月29日条に、「始薬師寺東塔立」とあり、東塔(三重塔)が完成したのがその年のことで、その頃まで造営が続いていたものと思われる。 なお、平城京への移転後も、飛鳥の薬師寺(本薬師寺)はしばらく存続していた。史料や発掘調査の結果からは平安時代中期、10世紀ころまでは存続していたようだが、後に廃寺となった。本薬師寺跡には金堂・東塔の礎石、西塔の心礎が残り、堂塔の平面規模、金堂と塔との距離などが平城薬師寺とほぼ等しいことがわかっている。 平城京の薬師寺は天禄4年(973年)の火災と享禄元年(1528年)の筒井順興の兵火で多くの建物を失った。現在、奈良時代の建物は東塔を残すのみである。格安航空券 国内 移建・非移建論争 平城京の薬師寺にある東塔及び本尊薬師三尊像が飛鳥の本薬師寺から移されたものか、平城京で新たにつくられたものかについては明治時代以来論争がある。21世紀の現在では、東塔は平城京での新築とするのが、ほぼ通説となっているが、論争は完全に決着したわけではない。 11世紀成立の『薬師寺縁起』に引用される奈良時代の資財帳に「薬師寺には塔が4基あり、うち2基は本寺にある」という趣旨の記載があり、ある時期までは平城と飛鳥の両薬師寺にそれぞれ2基の塔があったと解釈されることから、町田甲一らはこれを非移建説の根拠の1つとしている。現存する東塔に、他所から解体移築した痕跡の見られないことからも、東塔については『扶桑略記』の記述どおり、平城移転後の新築と見る説が有力である。ただし、平城薬師寺の境内からは本薬師寺から出土するのと同様の古い様式の瓦も出土しており、平城薬師寺の伽藍が全て新築で、飛鳥からの移築は全くなかったとまでは言い切れない。 発掘調査の結果、平城薬師寺の廻廊は当初単廊(柱が2列)として計画されたものが、途中で複廊(柱が3列、通路が2列)に設計変更されたことが判明している。このことから、当初は本薬師寺の建物を一部移築しようとしていたものを、途中で計画変更したのではないかとする説もある。 金堂本尊薬師三尊像については、『日本書紀』に見える、「持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(むしゃだいえ)が行われた」との記述を重視し、この年までには造立されて、後に平城薬師寺に移されたとする説がある一方、主に様式や鋳造技法の面から平城移転後の新造とする説もあり、決着はついていない。 金堂・西塔などの再建 20世紀半ばまでの薬師寺には、江戸時代末期仮再建の金堂、講堂がわびしく建ち、創建当時の華麗な伽藍をしのばせるものは焼け残った東塔だけであった。1960年代以降、名物管長として知られた高田好胤(たかだこういん)が中心となって写経勧進による白鳳伽藍復興事業が進められ、1976年に金堂が再建されたのをはじめ、西塔、中門、回廊の一部、大講堂などが次々と再建された。なお、旧金堂は現在興福寺の仮中金堂として移築され、外観を変えながらも現存している。 伽藍 金堂高速バス 東塔水煙の模型 玄奘塔 当寺の伽藍配置は「薬師寺式伽藍配置」と称されるもので、中央に金堂を配し、金堂の手前東西に塔を、金堂の背後に講堂を、またそれらを取り囲むように回廊を配している。 * 南門(重文)−境内南正面にある小規模な四脚門。室町時代・永正9年(1512年)の建築で、もとは薬師寺西院の門であった。 * 中門−1984年の再建。両側に回廊が延びる。バリ * 金堂−1976年の再建。奈良時代仏教彫刻の最高傑作の1つとされる本尊薬師三尊像を安置する(薬師三尊像については後述)。 * 大講堂−2003年の再建。本尊の銅造三尊像(重文)は、中尊の像高約267センチの大作だが、制作時期、本来どこにあった像であるかなどについて謎の多い像である。かつては金堂本尊と同様、「薬師三尊」とされていたが、大講堂の再建後、寺では「弥勒三尊」と称している。 * 東塔(国宝)−現在寺に残る建築のうち、奈良時代(天平年間)にさかのぼる唯一のもの。総高34.1メートル(相輪含む)。屋根の出が6か所にあり、一見六重の塔に見えるが、下から1・3・5番目の屋根は裳階(もこし)であり、構造的には三重の塔である。仏塔建築としては他に類例のない意匠を示す。塔の先端部の相輪にある青銅製の水煙(すいえん)には飛天像が透かし彫りされており、奈良時代の高い工芸技術を現代に伝えている。相輪の中心部の柱の最下部には「東塔さつ銘」(「さつ」の漢字は木扁に「察」)と称される銘文が刻まれており、薬師寺の創建と本尊造立の趣旨が漢文で記されている。塔の建築年代については飛鳥の本薬師寺から移築されたとする説と、平城京で新たに建てられたとする説とがあったが、『扶桑略記』の記述のとおり、天平2年(730年)に平城京にて新築されたとする説が有力である。当初、東塔・西塔の初層内部には釈迦八相(釈迦の生涯の8つの主要な出来事)を表した塑像群が安置されていたが、現在は塑像の断片や木心が別途保管されるのみである。明治時代に本寺を訪れたアーネスト・フェノロサは、この塔を指して「凍れる音楽」と表現した[1]。ただし、「建築は凍れる音楽」というフレーズはフェノロサ以前からドイツで使われていたともいわれている。[2]沖縄旅行 レンタカー * 西塔−東塔と対称的な位置に建つ。旧塔は享禄元年(1528年)に戦災で焼失し、現在ある塔は1981年に伝統様式・技法で再建されたものである。デザインは東塔と似ているが、東塔が裳階部分を白壁とするのに対し、西塔は同じ箇所に連子窓を設けるなどの違いもある。東塔も元々は連子窓であったが修復で白壁にされた。一見すると東塔に比べ若干高く見えるが、これは1300年の年月の内に、東塔に材木の撓みと基礎の沈下が起きた為である。当然再建された西塔はそのような年月の経過を経験していない為、若干高く見えるとの事である。西塔の再建に当たった文化財保存技術者西岡常一によれば、500年後には西塔も東塔と同じ高さに落ち着く計算との事である。 * 東院堂(国宝)−境内東側、回廊の外に建つ。元明天皇のために皇女の吉備内親王が養老年間(717−724年)に建立した東禅院が前身で、現在の建物は鎌倉時代・弘安8年(1285年)の建築。堂内の厨子に本尊・聖観音立像を安置する。夜行バス * 玄奘三蔵院−主要伽藍の北側にあり、1991年に建てられたもので玄奘三蔵を祀る。日本画家平山郁夫が30年をかけて制作した、縦2.2メートル、長さが49メートル(13枚の合計)からなる「大唐西域壁画」がある。 * 休岡八幡宮(重文)−南門を出て、公道を横切った向かい側の敷地にある。薬師寺の鎮守社で、現在の社殿は桃山時代の慶長元年(1596年)、豊臣秀頼の寄進によるもの。 文化財 国宝 * 銅造薬師三尊像−奈良時代の作。中尊は薬師如来、脇侍に日光菩薩(にっこうぼさつ)と月光菩薩(がっこうぼさつ)を配している。中尊像の堂々たる像容、脇侍像の自然な身のこなし、各像のプロポーションなど、日本の仏教彫刻が中国・六朝や唐の影響を受けつつ、独自の古典様式を完成した奈良時代の作品のなかでも最高傑作の1つとして古来名高いものである。中尊像の台座には、シルクロードの軌跡とも言うべく、ギリシャ、ペルシャ、インド、中国などに淵源をもつ葡萄(ぶどう)唐草文、異国風の人物像、四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)などの意匠があしらわれている[3]。制作年代については、「歴史」の項で述べたように持統天皇2年(688年)には完成していたとする説、『日本書紀』に持統天皇11年(697年)、薬師寺にて仏像の開眼法会を行った旨の記録があることから、この時に制作されたとする説、平城京移転後の新造とする説があり、決着をみていない。 * 東塔(前述) * 東院堂(前述) * 銅造聖観音立像 - 東院堂本尊。SEO対策 像高約189センチ。金堂薬師三尊像と同じく、奈良時代の金銅仏の代表作の1つである。国宝指定名称は「銅造観音菩薩立像」。 * 木造僧形八幡神・神功皇后・仲津姫命坐像−平安時代初期の作。いずれも像高30数センチの小品で、薬師寺の鎮守八幡宮の神体として作られたもの。日本の神像彫刻は仏像の影響を受けて作り始められたもので、薬師寺の三神像は日本の神像としては現存最古作の1つである。奈良国立博物館に寄託されている。 * 麻布著色吉祥天像 - 『金光明最勝王経』所説に基づき、吉祥悔過会(きちじょうけかえ)の本尊として制作されたもので、数少ない奈良時代の絵画遺品として貴重なものである。頭部の背後に光背(後光)があることからこれが仏画であることがわかるが、一見すると奈良時代の美人画のように見える。風になびく着衣の繊細さがよく表現されている。春・秋などに期日を限って、寺内の大宝蔵殿で公開される。 * 絹本著色慈恩大師像 - 中国法相宗の祖の肖像画。11世紀の作。 * 仏足石 - 大講堂内にある。礼拝対象としての仏陀(釈迦)の足跡を刻んだ石。側面に長文の銘があり、黄書本実(きぶみのほんじつ)が唐で写し持ち帰った仏足跡を文室真人智努(ぶんやのまひとちぬ)が夫人の追善のために写させたもので、天平勝宝5年(753年)の作と知られる。 * 仏足跡歌碑 - 大講堂内にあり、仏足石とともに伝来したものだが、元来一具のものであるかどうかは定かでない。高さ194cmの石碑に仏足跡を称える歌など21首の歌を万葉仮名で刻む。ここに刻まれた歌はいずれも通常の和歌より1句多い「五・七・五・七・七・七」の歌体になり、これを「仏足跡歌体」と称する。 重要文化財 * 南門 * 八幡神社社殿 3棟 * 若宮社社殿 * 板絵著色神像 6面 永仁三年三月尭儼筆 * 銅造如来及両脇侍像(大講堂安置)※寺では2003年より本像の呼称を「薬師三尊」から「弥勒三尊」に変更している。 * 木造十一面観音立像(1897年重文指定、像高165.5cm)(奈良国立博物館寄託) * 木造十一面観音立像(1902年重文指定、像高191.5cm)(奈良国立博物館寄託) * 木造十一面観音立像(1921年重文指定、像高180.3cm)(東京国立博物館寄託) * 木造地蔵菩薩立像(大阪市立美術館寄託) * 木造地蔵菩薩立像 善円作(東京国立博物館寄託) * 木造伝大津皇子坐像(奈良国立博物館寄託) * 木造二天王立像(持国天・多聞天)(東京国立博物館寄託) * 木造文殊菩薩坐像 * 木造弥勒菩薩坐像(奈良国立博物館寄託) * 木造吉祥天立像(大阪市立美術館寄託) * 塔本釈迦八相像残欠 o 東塔塑像心木 160箇 o 西塔塑像断片 52箇 o 附:塑像断片一括、木像残欠25箇、土塔1箇、和同開珎残片2箇分、硬玉丸玉1箇 * 木造光背残欠